男にはやらなければいけない時がある。たとえ罠だと分かっていても、その先にあるものが後悔の二文字しかなかったとしても、時には知らぬふりをして突き進むことがあるのだ。
つまり男とは「後悔すれども反省せず」という生き物であると言える。
ーあれは確か20代半ばの頃の話だ。
20代半ばの独身男性とは、最も典型的なバカな生き物である。仕事も覚えてきて、自由な時間もあり、そこそこ金もある。刹那的な楽しみを謳歌するにはこの上ない条件が揃っているのだ。
そして当時の私も類に漏れず、バカな生き物だった。
当時は平日は21時~22時くらいまで残業をするのが当たり前だった。だがその日はたまたま定時で帰らなければいけなかった。
こんな日はそうはない。まっすぐ自宅に帰るのはあまりにも芸がない。会社を出たらすぐに携帯電話を開き、連絡先を順番に見ながら飲み相手を探していた。
今でも覚えている。ちょうど連絡先の「た行」まで確認したところだ。突如私の携帯電話に着信があった。
液晶画面には「非通知設定」と表示されている。
今では信じられないかもしれないが、かつては法人からの着信だと番号通知されないことの方が多かった。もちろん私の勤務先も同様で、非通知設定=会社からの緊急連絡という認識となっていた。まずもって良い知らせではない。
せっかく定時で帰ることができたと思ったらこれだ。だが幸い(?)飲み相手も見つかっていなかったし、電車にも乗っていない。
駅の方へ向かっていた足を会社方面へと向け、ふっと一呼吸置いた後に通話ボタンを押した。
『は~い、五反田ひろしさんですかぁ~?』
電話の向こうには元気の良い女性がいた。なお勤務先には私のことをフルネームで呼ぶ人間はいない。この時点で、私の連絡先を不正に入手した何かしらの勧誘だということは分かる。
だが電話の向こうの彼女は私の応答を待たずに話を続ける。
『今、若者のためのコミュニケーションスペースを~(中略)~もし時間があれば会いたいなぁと思ってぇ~』
このような電話は田舎を出て東京で一人暮らしをすると山のようにかかってくるので、対応には慣れていたつもりだった。適当に相槌を打ちながらも相手の話は聞かず、「忙しいんで切りますよ」と言いながら切れば終わりである。
だがこの日は終わらせることができなかった。いや、話を続けたのは私の方だ。
実際に相手のテリトリーに足を踏み入れると何が起こるのかは想像はできていた。だが何事も一度は経験をしてみたいという生来の好奇心が顔を覗かせ、会社からの重い内容の電話ではなかったという安堵感がその好奇心を後押しをする。いや、何よりも暇だった。
結局電話の向こうの女性と10分ほど会話をし、そのままの流れで待ち合わせることになった。なおこちらは20代半ばのバカな生き物である。あわよくばという思いがあったことは否めない。
指定されてた待ち合わせ場所は、銀座松屋の前だった。
『五反田ひろしさん・・・ですよね?』
到着するやいなや女性から声をかけられた。先の電話で私の背格好とその日の洋服は伝えてあったので、すぐに判別できたのだろう。年の頃はおそらく当時の私よりも少し上、20代後半くらいだろうか。
彼女はダークカラーのスーツを身にまとっていた。薄めのチョークストライプ柄で、スカートは膝上15cm以上はあるであろうかなり短めのタイトなデザインだ。インナーにはホワイトのVネックのニットだ。悪くない。
挨拶もそこそこに、すぐに事務所へ行くことになった。
談笑しながら夜の銀座を歩くその姿は、通行人には普通のカップルに見えていたのかもしれない。
銀座の路地裏にある雑居ビルへ着いた。重いガラスの扉を引き、狭いエントランスへ。3~4人乗りの煙草臭い小さなエレベーターに乗り上の階へと進む。
途中の階で止まることはなく、エレベーターはまっすぐに指定の階に到着した。開ボタンを押してくれる彼女に会釈してエレベーターの外にでる。
フロアは大きくは2つに分かれているようだった。異様に暗い30坪くらいのスペースに机と椅子が5セットほど置かれている部分、そして廊下の奥にある事務所と思われるスペースだ。
もちろん私も明るい事務所ではなく、暗いスペースへと案内される。1つ1つの机はかなり間を取って配置されており、すでに数名が訪れていて他の女性から説明を受けている様子だった。
「え!じゃあ今渡した5,000円はもう帰ってこないんですか??」
なんとも香ばしい声も聞こえる。
そうだ、私はこれが味わいたくてわざわざ仕事帰りにここに来たのだ。先ほどまでは半分観光客気分でいた自分を戒め、これから始まるであろう戦いに備えることにした。
奥の机に腰掛けると、飴玉を勧められた。勧められるとおりイチゴ味の飴玉を口に含む。それを見て彼女は微笑みながら私の対面に座って脚を組んだ。それが戦いのゴングであった。
内容はもうあまり覚えていないのだが、電話で話をした若者のためのコミュニケーションスペースへの加入から始まり、リゾートホテルの会員権購入、最終的には1つ数十万円の絵画購入にまで話は及んだ。生活が豊かになるそうだ。
余談だが絵画は全てハワイのマリンアートの巨匠によるものだった。氏が直接関与しているはずもなく、迷惑な話である。
彼女のセールストークはコミュニケーション型ではなく、完全に勢いでやり込めるタイプだった。私は終始やる気のない相槌を打ちながら彼女の話を聞いていたのだが、おそらく相槌が無かったとしても彼女の話は変わらなかっただろう。
時間にして実に3時間。敵は思った以上に強大であり、軽い気持ちで訪れたことを完全に後悔していた。
そうなると後はもういかに早くこの場を去るかが重要である。
今度は私の反撃のターンである。せっかく長いこと説明をしてくれたのに申し訳ないが全く興味が無いということ、そして彼女のセールストークの矛盾点を突いていった。矛盾点と言っても大それたものではなく、1+1が2にならないけど何故?というレベルのものだ。
もちろん彼女も反論をしてくるが、どうやら攻めは得意だが防御は苦手らしい。かなりの粘りを見せていたが、最終的には開放してくれることに承諾してくれた。
『鬼!!』
彼女が私をそう罵ったのは、このビルに入ってからもう4時間が過ぎた頃だった。
だがなんと蔑まれようが私は勝利したのだ。後はもうこのビルから出れば全てが終わる。私は鞄を手に持ち、入口のエスカレーターの方へ歩き出した。
だがそこで彼女が妙なことを言い出した。
『ごめん!一応上司に報告しないといけないから、ちょっと待ってて。あ、ビルの出口は鍵がかかっているから、私と一緒じゃないと出れないよ。』
冷静に考えれば、屋内からも出ることができないような構造の建物などあるはずもないことは分かる。だが戦いに勝利した私には達成感とともに妙な余裕が生まれており、そこに気づくことができなかった。
エレベーターの前で待つこと数分。
ふと気づくとエレベーターが動き出していた。どうやら1階で誰かが乗り込み、上に昇ってくるようだ。だが先の彼女の話から考えると何か違和感がある。
そうこうしているうちにエレベーターは私のいる階で止まった。エレベーターのドアがゆっくりと開く。
エレベーターに乗っていたのは2人の男性だった。年齢は40代だろうか?2人ともサイズ大きめのダークカラーのダブルのスーツを身にまとい、シャツの胸元は大きくはだけ、靴はギラギラと下品な輝きを帯びていた。セカンドバッグを持っていたかどうかは記憶に無い。
そう、どう見ても昼間には知り合わないような職業と思しき2人である。
ここでようやく我に返った。そうだ、RPG でボスキャラの後に真のボスキャラが隠れているのと一緒だ。私は中ボスを倒したに過ぎず、まだ真のボスキャラが統べる敵のダンジョンの中に身を置いている状況が続いていたのだ。私はまだロンダルギアから出ていない。何をいい気になっていたんだ。
ここが運命の分かれ道だということは本能的に感じていた。たとえ本当にドアに鍵がかかっていたとしても、ガラスを蹴破ってでも脱出するしかない。さもなければ私はボスキャラの餌食になってしまう。
そこで極力自然に、彼らに会釈をしながら入れ違いでエレベーターに乗り込んだ。猛烈な視線を感じていたが、目を合わせたら負けである。ドアよ早く閉じろと念じながら閉ボタンを強く押した。
幸運にもドアはスムーズに閉じ、エレベーターは1階へと動き出した。そして最後の関門、1階の外へとつながるドアの鍵である。これ以上ないくらいの渾身の思いでドアを押すと、意外なほどスムーズにドアは開いた。
そう、脱出できたのである。私は4時間半ぶりに、雑居ビルという名のダンジョンから抜け出すことができたのだった。
その後は銀座の人混みに紛れ、銀座4丁目の地下鉄銀座線の駅へと急いだ。幸い追っ手は現れず、そのまま無事に電車に乗って家路につくことができた。
しかしそれからおよそ30分後に自宅の最寄り駅に到着したところで、携帯電話が鳴った。二つ折り携帯を開くとそこには「非通知設定」の文字が。
万が一同じ電車に乗って来られていたらすべてが終わる。この電話を無視したところで意味もない。意を決して通話ボタンを押した。
『あれ~?いつの間に帰ったの~?また遊びに来てね~!』
商魂逞しいとはこのことだと痛感しつつも、ようやく安心して自宅へ帰ることができたのだった。
以上がエウリアンとの対決の一部始終である。遠い記憶を紐解いたので間違いはあるかもしれないが、ご容赦いただきたい。
この件は私に大切なことを教えてくれた。
虎穴に入らずんば虎児を得ずという諺があるが、目的もなく暇潰しのために虎穴に入っても、何も得ることができないということだ。むしろ虎に喰われて終わりになる可能性のほうが高いのだ。
長時間の拘束で思考力・判断力を鈍らせるという王道の手法はもちろんのこと、今回は暗くクローズドな空間で、かつ一定以上の人数にならないようコントロールされており、かなり組織的に動いているようだった。別の記事で紹介した例よりもはるかに高度である。
もしも私の反撃があと30分遅かったとしたら、後から来た男性達が私の机にやって来た可能性もあったのだ。幸運としか言いようがない。
繰り返すが、目的もなく暇潰しのために虎穴に入っても、何も得ることはできない。むしろ虎に喰われることを覚悟すべきなのだ。
特に20代半ばのバカな生き物は自らの能力を過信しがちである。私のこの経験が何かしらの予防になれば幸いだ。
では再見。
参考▶ マルチ商法の勧誘と興味本位で対決すると、とんでもなく疲弊する
※おバカなカテゴリの記事一覧はこちらから※
コメント